群馬県は、国内でも有数の外国人集住地域である。同県は、「多文化共生・共創県ぐんま」[i]を提案し、国籍や民族等にかかわらず誰もが幸福を感じることのできる社会の実現を目指している。
群馬県伊勢崎市で人材派遣業など幅広く活躍する、株式会社DS in Japan[ii]代表取締役の山本雄次氏は、群馬県の「ベトナム出身キーパーソン」[iii]として、日本とベトナムの橋渡し役を担っている。
みんなの外国人ネットワーク(以下MINNA)では、2020年11月に山本氏へのインタビューを実施した。
1975年のベトナム戦争終結後、ベトナム・ラオス・カンボジアでは社会主義体制へ移行したことにより、新体制下で迫害の恐れがあったり、新体制になじめない約140万人が国外に亡命した。彼らはインドシナ難民と呼ばれ、世界中に定住した。日本も1978年にインドシナ難民の受入れを開始、2005年までに11,319人を受け入れた[iv]。
1983年にベトナム北部の都市ハイフォン(ハノイ・ホーチミンと並ぶ中央直轄都市)で生まれた山本氏も、3歳の時に家族や親戚とボートでベトナムを出国、当時イギリスの植民地だった香港で、インドシナ難民として認定を受けた。いわゆるボートピープルのひとりだ。ベトナムからはボート10隻で出国したものの、国連のベトナム難民政策における「第一収容港(無条件で難民を受け入れる)」であった香港までたどり着くことができたのは、山本氏たちが乗った小さな船1隻だけ。来日するまでの道のりは、まさに命懸けの壮絶な旅路であったに違いない。そして香港の難民キャンプで4年間過ごした後、受入国として割り振られた日本に渡り、父親の友人を頼りに群馬県伊勢崎市に移住。しかし、転入した市内の小学校でも日本語が分からないことで大変な苦労を重ねている。同級生に「ガイジン」とはやしたてられ、喧嘩になることも多かったようだ。特に苦労したのが漢字で、学校で配布されるプリントの内容は家に持ち帰っても理解できる家族がいないので、学校にいる間に隣の席の友人に教えてもらっていたそうだ。そして苦学の末に、家族が行政機関に行くときは通訳として同行できるまでになったと言う。15歳で市内の中学校を卒業後、様々な仕事を経験し、並行してボランティアで通訳もするようになる。これらの経験が基となって、現在の会社設立に至る。
山本氏が代表取締役を務める株式会社DS in Japanの事業は、ベトナム人材派遣業、技能実習生・特定技能者支援、ベトナム語通訳・通訳派遣業、飲食店経営と幅広い。しかし、同氏の活動は会社の事業だけにとどまらない。以下にいくつか挙げるが、今日のパワフルな活動は、あのとき助けてくれた日本に恩返しをしたい、今同じ気持ちを抱える同胞の力になりたいという思いが原動力になっている。
コロナ禍では日本人同様に、ベトナム人をはじめ多くの外国人も困難な状況に陥った。普段から山本氏は同胞からの様々な困りごとに対応していたが、コロナ禍ではより深刻な相談が寄せられていたという。生活に困窮して助けを必要とする同胞に対しては、ビジネスで構築したネットワークを通じてつながった協同組合と協力して、住まいの提供等をとおして彼らの生活基盤を整えることによって、地域で生活を続けられるよう支援した。
山本氏は、ベトナムコミュニティだけではなく、地元住民とのつながりも大切にしている。「タイガーマスク弁当」[v]のベトナム料理版もそのひとつ。群馬県内の飲食店がリレー方式で生活に困窮した人たちを支援しながら、そして食品ロスを減らすためにお弁当を無料配布したことを受け、山本氏もベトナム料理のお弁当を提供した。このとき料理に使ったキャベツは、県内の農家から頂戴したもの。地元住民と協働して、困難な状況にある人を助ける。そして、地産の野菜とベトナム料理のおいしさも知ってもらおうとした。
近年では同胞のベトナム人だけでなく日本の行政からも信頼を寄せられている。先述した群馬県の「ベトナム出身キーパーソン」として、県の多文化共生推進活動への参画はもちろんのこと、外務省と国際移住機関(IOM)主催の国際フォーラムに登壇し、日本社会に向けて外国人の生活上の困りごとや経験談を紹介した。また、コロナ禍で検査を受けたくても受けられない困難な状況にあるベトナム人と行政との橋渡しをすることもあったそうだ。
パワフルな活動を続ける一方で、2021年1月には自身がコロナ陽性となった。当初は自宅療養をしていたものの、息苦しさが増したため入院。回復して退院するも、後遺症による倦怠感に苦しんだ。そして、その経験を「多くの人に知ってもらい、病気の理解や感染防止の力になりたい」と、新聞社の取材を受けた。この背景には、県内で暮らす人たちに正しい情報を発信して啓発を促すことで、お世話になった医療従事者への恩返しの気持ちもあったと言う。
私が山本氏を知ったのは、外国人就労に関する事業で群馬県の担当になったことがきっかけで、これまで何度か協力してもらってきた。先述したように同胞コミュニティはもちろんのこと、ビジネスパートナー、地元住民、行政など、彼のネットワークは放射状に広がっており、群馬県に地縁のない私は同氏に何度も助けてもらった。
例えば、群馬県内で外国人の職業体験先を探していた際に同氏に相談したところ、すぐに同じ商工会議所のメンバーである地元企業の社長につなげてくれた。これには改めて、地域創生を目指す地方都市において、外国出身の山本氏の存在が自然に溶け込んでいることを実感した。彼の爽やかな笑顔と快活な物言い、力強い行動のひとつひとつがベトナム人と地元住民をつなぎ、共生・協創にかけがいのない存在になっているのだろう。
今日も山本氏のパワフルな活動はさらに増え、ネットワークは広がり続ける。私がこのエッセイを早く出しておかないと、新しい活動が次々と増えてしまって、エッセイの内容が古くなってしまう。実際にのんびりしていたら、伊勢崎市の「多文化共生キーパーソン」[vi]に任命されて、伊勢崎市長と感染症対策の啓発動画に出演していた。
私には山本氏のような過酷な生い立ちもなければ、パワフルさもネットワークも持ち合わせていない。私一人でできることは限りなくゼロに近いけれど、今MINNAの活動に参加して、外国人の困りごとや彼らのネットワークについて、少しずつ学ばせてもらっているところだ。
そして今、ソーシャルワークの実践を積むために、風俗で働く女性の支援団体で相談業務のインターンをしている。私が住む新宿区には風俗で働く女性たちが住んでいることは見聞きしていたものの、彼女たちとの接点はなく、どのような生活を送っているか知る由もなかった。しかし実際に相談業務を始めると、社会からとり残され、公的扶助ではなく風俗ではたらくことがセーフティネットになっている女性が少なくないことが見えてきた。彼女たちは複合的な困りごとを抱えており、MINNAで学ぶ外国人のそれと類似することも少なくない。コロナ禍でその深刻さがさらに増したことも同様だ。
今はまだ、彼女たちの相談や必要な支援への橋渡しがスムーズにいかず、一緒になって立ち止まってしまうことが多い。しかし、そんなときには山本氏だったらどうするかと立ち戻り、一歩ずつ確かめながら進んでいきたい。山本氏とはかかわるフィールドも地域も異なるけれど、困りごとを抱える人たちに寄り添い、ともに歩んでいく姿勢は同じでありたい。そして今、「外国人」と「風俗で働く女性」というふたつの要素が重なった、「風俗で働く外国人女性」が気にかかっている。彼女たちがどこにいて、どんな生活を送っているのか、潜在化していてなかなか見えてこない。だれひとり取り残さない社会に向けて、これから私も実践と研究に取り組み始めようと歩き出したところだ。
(国立国際医療研究センター 国際医療協力局 宮城 あゆみ)
[i] 群馬県「多文化共生・共創県ぐんま」共同宣言を行いました!https://www.pref.gunma.jp/03/ci11_00034.html [ii] 株式会社DS in Japan https://dsinjapan.com/ [iii] 群馬県【ベトナム出身キーパーソン】山本 雄次さんhttps://www.pref.gunma.jp/03/ci11_00057.html [iv] 外務省 国内における難民の受け入れ https://www.mofa.go.jp/MOFAJ/gaiko/nanmin/main3.html#2 [v] 上毛新聞 伊勢崎へバトン タイガーマスク弁当 https://www.jomo-news.co.jp/news/gunma/society/276923 [vi] 伊勢崎市 伊勢崎市多文化共生キーパーソンとの連携による多文化共生まちづくり推進事業 https://www.city.isesaki.lg.jp/soshiki/siminbu/kokusai/kokusai/11632.html
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